人の世はいつの時代も不条理なのかもしれません。
強いものは強く、力あるものの庇護の下に置かれない弱者は駆逐されるのみなのでしょうか?
持つものと持たざるもの差はこんなに激しくてもいいのでしょうか?
確かに知る者と知らざる者の差は依然として存在するし、今後も続くでしょう。
もしかするとその差は如実に現れるのかもれません。
しかし知らざるものが知ろうとする努力をしたとき、
知る者は進んでこれを助ける必要があるのではないでしょうか?
私はこれを義務であると考えます。
力ある者、もしくは知る者は努力する他者を助けないのなら
いつまでも荒廃した世界は変わらないままでは・・・。
しかしそこに疑問もできます。
そもそも荒廃したように見える今の世の中は
現在という「今」に始まったことなのでしょうか?
たとえば10年前は?50年前は?
100年前は?300年前はどうだったのでしょうか?
それも今は誰も知ることができません。
ただ歴史は繰り返すという言葉にあるように
音楽でさえ約15年というサイクルで装飾を変えながら繰り返すようにその見え方だけを変えつつ現在も繰り返しているのではないでしょうか?
そして持つものと持たざるもの、知る者と知らざる者の違いはどこにあるのでしょうか?
誰がどのように助けるかを判断するのでしょうか?
その行き着く先は何があるのでしょうか?
食べ物、住む場所、そして金が得られれば名声が欲しくなり
よりいっそうの金を欲するでしょう。
そしてパートナーや子供、健康な体そして、行き着く先は老いない体ではないでしょうか?
もし仮に老いない体、死なない体を手に入れた者は
もし仮に老いない体、死なない体を手に入れた者は
逆にいつの日か「死」を望むようになりませんでしょうか?
世界をそして社会を俯瞰することができ、そしてその構造を理解することができれば
その解は得られるかのも知れません。
世界・社会の最小構成単位は一人の人間であり一個の生命体です。つまりは一個の生命体、ヒトの存在・心・魂が分かるようになればそれはすなわち社会、そして世界を理解できることになるのではないでしょうか。
しかしある作られた器がその作った者の真意やその用途をあずかり知ることがない事と同じく
私たち人間はその自らの生物特性は理解しえたとしてもその奥に、
内面に持つ精神性・心・魂・スピリチュアルなもの(呼び方はそれぞれですが明確なカタチをなさないが確実に存在するであろうそのモノ)は決して理解することは叶わないのでは私は思います。
ヒトはなぜ愛しい、かわいい、楽しい、苦しい、つらい、悔しい、悲しい等と感じるのでしょうか?
私には、私たちには疑問が多すぎます。
答えはひとつではないのかもしれません。
ヒトは考える葦である。
そして思い、考えているから私はそこに存在している。
しかしなにもそれを立証するものがありません。
本当に私は生きているのでしょうか?
生きていると思い込んでいる何かではないのかと考えます。
そして夜がふけていきます。